今後は毎週金曜日に投稿していきたい!ということでブログの内容をこちらにしました↓
①お出かけした場所の紹介
②マジックの紹介、解説
③歴史上の人物の解説
です。
そして今回は徳川家康を解説します。
途中で赤文字だったり青文字だったりなっているのはこちらを参照 (緑は中間的な感じ)
①赤=今川方 青=織田方
②赤=今川方 青=織田.徳川方
③赤=秀吉の敵対勢力 青=豊臣方
④赤=徳川方 青=家康の敵対勢力
激動の幼少期 家康誕生から桶狭間の戦いまで
家康は関東の三河国を治める国衆松平広忠の息子として1542年に岡崎城で生まれました。
以前の松平家は西に織田信秀東に今川義元と、東西に敵を構える形になっていました。
このため、広忠は今川家の配下となっていました。
しかし、家康の母であるお大の方の兄、水野信元が今川を離反し、織田方についたため広忠とお大の方は離婚せざるを得なくなってしまいました。
3年後、今川家への忠誠の証として広忠は、竹千代(後の徳川家康)を人質として今川家に送ることにしました。
しかし船を動かす船頭が織田方に寝返ったため、竹千代は尾張国に送られてしまいました。
ここで、竹千代は、織田信長に出会います。
それからしばらくして、安祥合戦にて今川方が織田信広を生け捕り信広と交換で竹千代は今川家の人質になりました。
ここで竹千代は太原雪斎の指導の下、学問や武芸を学びました。
竹千代が14歳になって元服し、松平元信と名乗っていた頃に義元の姪の瀬名(築山殿)と結婚しました。
それを機に、元信の祖父である松平清康より1字拝領し、松平元康と名乗り始めました。
やがて瀬名との間に息子が生まれました。
1560年義元は織田領に侵攻しました。
ここで元康は今川一門の鵜殿長照が籠もる大高城に兵糧を届ける役目を担うことになりました。
しかし、義元が桶狭間山で休息をとっていたところを織田軍に襲われ、討死にしてしまいました。
この凶報は元康の耳にも届き、元康は今川家からの独立を表明しました。
信長とともに
元康は、久しぶりに信長に会いに行きました。
ここで元康は、戦国時代一強固だったといわれる清州同盟を信長と結びました。
さらに、名を松平家康に変えました。
しかし、1563年に、三河国内の一向宗(浄土真宗)門徒や、本宗寺を中心とする本證寺(ほんしょうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)、上宮寺(じょうぐうじ)といった三河三ヶ寺の反乱(一向一揆)が勃発しました。(三河一向一揆)
これには、家康の家臣多くいました。
たとえば、槍半蔵の異名を持つ渡辺半蔵守綱や、白樫三間柄(しらかしさんげんえ)の槍を持つ蜂屋半之丞貞次、のちに家康の天下取りに大きく貢献することになる本多正信らも家康に反旗を翻しました。
家康はこれと「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を旗印にして全面戦争を決意し、およそ半年間による激戦の末、何とか和睦にこぎつけました。
これで家康はついに三河国の統一を果たしました。
1569年、家康は領土を増やすため、甲斐の武田信玄と、切り取りしだいでかつての主家である今川家に侵攻しました。
信玄の軍勢はつよく、あっという間に駿府が陥落。
今川家当主今川氏真は、遠江の掛川城に逃げ込みましたが、家康の軍に敗北し、氏真は降伏、戦国大名としての今川家は滅亡しました。
その後、家康は上洛し、その勢いのまま、上洛を拒む朝倉義景を信長と信長の義弟浅井長政とともに攻めました。
しかし、長政の裏切りにあった信長はいったん撤退しますがふたたび攻めると姉川で浅井・朝倉軍に大勝し敗走ました。
三河に戻った家康は、名字を徳川に変えました。
そんな折、元亀3年(1572年)甲斐の武田信玄が、2万7000もの軍勢を率いて遠江に侵攻してきました。
家康は居城浜松城で籠城し、信長の援軍を待つ作戦でした。
しかし、信玄は浜松城を素通りし、岡崎城に向かった。
これに家康は籠城戦から白兵戦に切り替え、三方ヶ原の地で信玄を奇襲しようとしました。
しかし、武田軍に待ち伏せされており、家康は大敗を喫する。
この戦で、本多忠真や夏目吉信が討ち死にしています。
浜松城に逃げ帰った家康は兵法三十六計の第三十二計「空城の計」を用いて武田軍を撤退させました。その翌年、信玄は没した。
さらにその2年後には、長篠・設楽原の戦いでは、信長の約3000丁の火縄銃を使って武田の騎馬隊に大勝しました。
しかし、1579年には、信長の命で、息子信康と、妻の瀬名(築山殿)を処刑してしまいました。
家康は信長に怒りを覚えていた(かもしれない)そんなこんなで1581年に7年前に武田に奪われた高天神城を取り返しました。
さらに翌年には、織田・徳川・北条の3方向から攻撃を仕掛け武田を滅亡させました(甲州征伐)その後、信長に招かれ、堺見物をしていた家康のもとにとんでもない知らせが届きました。
その知らせとは、宿泊先の本能寺で家臣である明智光秀の裏切りにあい息子信忠共々討ち取られてしまったのです。
(本能寺の変)家康は切腹しようとしますが、家臣の本多忠勝らの説得により、何とか思いとどまりました。
そして、服部半蔵や茶屋四郎次郎の協力の下、最難関といわれた伊賀越えを成し遂げました。
猿(豊臣秀吉)の躍進
信長の仇を討とうとした家康ですが、有名な「中国大返し」で帰ってきた、羽柴秀吉が、明智光秀を山崎の戦いで討ち取りました。
その後に行われた織田家の後継者を決める清州会議でも、信長の仇を討った秀吉の前に柴田勝家たちは反論することができず、秀吉の推す信長の孫三法師を当主とすることになりました。
結果、織田家は秀吉の傀儡政権となりつつあったのです。
これに反発した柴田勝家が挙兵した。
しかしこれを秀吉は撃破しました(賤ケ岳の戦い)さらに勝家の居城の北ノ庄城にも攻め込み、勝家と信長の妹で勝家の妻のお市の方は自刃しました。 清州会議の時に信長の次男でありながら候補に選ばれなかったことに不満を覚えていた織田信雄が1584年に家康を頼ってきました。
もともと秀吉をよく思っていなかった家康は信雄の要請にこたえ挙兵しました。
織田・徳川軍は小牧山城を拠点として布陣し、羽黒合戦で秀吉軍に勝利しましたがその後は膠着状態が続きました。
これを受けた秀吉は池田恒興をはじめとする軍勢を秀吉の甥である羽柴秀次を総大将としたうえで三河、遠江に派遣し家康の居城浜松城を脅かそうとしました。
しかし、家康はこの行動を察知し、池田恒興らに奇襲を仕掛けました。
結果、羽柴軍は総崩れとなり池田恒興、森長可を討ち、秀次を敗走させました。(長久手の戦い)
これを受けた秀吉は、家康には勝てないと判断し、総大将の信雄と和睦し、家康は戦う理由を失う形となり、この小牧・長久手の戦いは引き分けとなりました。
翌年、信濃を治める真田昌幸と領土をめぐって対立し、戦に発展しました。
家康は重臣の鳥居元忠や大久保忠世を真田討伐に向かわせました。しかし昌幸の奇策の前に徳川軍は大敗を喫しました。
この頃、秀吉はどうしても家康を配下にしておきたいと考え、妹と母を人質として徳川家に送りました。
さすがに家康も、1586年に秀吉に降伏しました。
すでに天下を統一しつつあった秀吉は、1590年に最後の敵である北条を降伏させ天下統一を果たしました。この時に家康は江戸に転封を命じられました。
1592年秀吉は朝鮮と明(今の中国)に侵攻しましたしかし1回目は和睦し、2回目は秀吉が病死したため撤退しました。秀吉の死の直前に家康は遺言を受け取った。
天下泰平
秀吉亡き後、家康は五奉行の1人である石田三成と敵対します。
家康は早いうちに三成を潰しておこうと考え、五大老の1人の上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、会津に侵攻しました。
家康の読み通り三成はこのスキをついて挙兵。
家康は即座に反転して関ケ原を目指しました。
この頃三成率いる西軍は京都の伏見城を落としました。
ここで鳥居元忠は討死しました。
そして両軍相まみえ、開戦しました。西軍有利で戦は進み、東軍は追い詰められていました。
しかし小早川秀秋が西軍を裏切って東軍についたことで形勢は逆転。
半日で東軍が勝利しました。
3年後、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた。
12年後、家康は成長した秀吉の息子秀頼を潰そうと考え始めました。
そこで方広寺の鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻んでいたことが 国家安康 家と康の字を引き離していると言いがかりをつけ戦に発展。
家康は大筒を駆使して勝利。
大阪城の堀を埋める条件で和睦しました。
翌年、豊臣が挙兵し、戦国時代最後の合戦が始まりました。
圧倒的有利な徳川方が圧勝し、秀頼と秀頼の母淀殿は自害しました。
翌年家康も病に倒れなくなりました。